週末は・・・
毎年恒例の
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四国
今回はバイクでの参加は無理ぽいんで、
土曜日だけでもいいんです。
家族サービスを口実に楽しんできます♪
今回はバイクでの参加は無理ぽいんで、
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●作った少年当時小6→今35歳避難生活
「原子力明るい未来のエネルギー」。24年前、小学6年生の少年はそう信じ、双葉町の標語コンクールに応募した。標語は町の商店街の入り口に掲げられ、現在も残る。少年はいま35歳になり、同町から直線距離で約450キロ離れた愛知県で避難生活を送る。「明るい未来ではなかった」。悔しそうに言った。
○つかぬ気持ちの整理 「明るい未来」頑張る
福島第一原発から4キロの町中心部に自宅がある大沼勇治さん(35)は、6月20日に長男勇誠(ゆうせい)ちゃんを出産したばかりの妻せりなさん(36)と、愛知県安城市の県営住宅に避難している。
標語の看板はいまも、道路を横断して掲げられている。震災後、テレビや新聞で見るたびに複雑な感情がわく。双葉町民に「うしろめたい気持ち」も感じる。
大沼さんの記憶では、小学6年生のときに町が募集し、学校で「原子力」の言葉を入れて1人3案ずつ応募した。「原発の恩恵を受けて町が豊かになると疑わなかった」。学校では、原発を宣伝する施設の見学に行った。
大学進学と就職で双葉町を一時離れたが、29歳で帰郷し就職。実家は標語看板の近く。誇らしかった。
サラリーマンの傍ら、3年前に看板のすぐ脇にある母の土地に2階建て4世帯分のアパートを建てた。町で初のオール電化アパートにしたのも、原発を意識したからだ。「2世帯は『原発さん』に貸した」。福島原発で働く人を「原発さん」と呼ぶ。「東電がある限り、この町は大丈夫」と思った。
だが、3月11日に震災が発生。せりなさんと2人で南相馬市に逃げ、車の中で夜を明かした。翌日、会社のある相馬市にいるときに原発の水素爆発が起き、妊娠中のせりなさんが放射能の影響を受けないよう会津若松市の実家へ避難した。
さらに逃げようと、愛知県の親類と連絡をとり、3月末に安城市の県営団地へ。生活用品は団地や近所の人が提供してくれた。しばらくは双葉町に戻れないと覚悟し、当分はここで暮らすつもりだ。
会社を退職し、失業保険で生活費をまかなう。そんな状況でも、アパート建設と自宅のローン1500万円が残る。「原発さんがいたからアパート経営もできた。でも、原発事故のせいでアパートも捨てないといけない」
まだ気持ちの整理がつかず、新しい仕事を探すことはできない。切り替えるためにも早く一時帰宅したい。結婚式の写真や指輪を持ち帰り、故郷に別れを告げ、新天地でスタートを切ろうと考えている。
避難生活を送る故郷の人たち、生まれたばかりの我が子を思い、いまはこんな言葉が浮かぶ。「頑張ろう明るい未来へ双葉町」